もくじ
「人は死んだらどうなるの?」とお子さんに聞かれたり、ご自身で考えたりした経験はないでしょうか?死後を考えるということは生き方を見直すきっかけにも繋がります。
しかし、お寺で法話を聞いたりときっかけがないと日常生活で考えたり話したりする機会も少ないかと思います。
そこで今回は、仏教における「死後の世界」はどのようなものか解説していこうと思います。
日本は地獄と極楽思想が主流
日本ではよく、「悪いことをしたら地獄行き、良いことをしたら天国に行ける」という意味合いのことを聞きますが、それは日本が中国の仏教文化を受け継いでいるからです。
中国の道教思想に影響され、日本特有の死後の世界を説いたのが「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」と言われるお経になります。その中にある物語に地獄と極楽思想の考え方が出てきます。その物語とは、死後49日間で閻魔大王など10人の王が死者の審判を下して、死後の行き先を決めるというものです。
もちろん、宗派によって考え方は異なります。ここでは、日本の一般的な考え方をご紹介していきます。
十王経を元にした死後の世界の考え方
仏教における死後の世界は、極楽と六道と呼ばれる道があります。
六道とは、6種類に分けられた苦しみの世界のことです。
人は亡くなると49日間、現世から冥途へ向かう旅に出ます。そして、冥土の入り口で、現世の行いを審判されます。無垢の善人は仏となり極楽へ、少しでも悪いことをした人は、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の6つの道へと行かされます。
まず、6つの世界をそれぞれ見ていきましょう。
天道
六道の中では最も迷いがなく楽しみの多い世界です。天人が住む場所であり、人間より優れた存在として扱われます。しかし、仏界とは違い苦しみが全くないとは言い切れません。
人間道
私たち人間が生きている世界です。六道の中では唯一、仏教と出会うことができ、六道から解脱することができます。人間道では、四苦八苦に悩まされると言われています。
修羅道
阿修羅が住む世界のことです。阿修羅は戦いを好む鬼や悪魔として知られています。そのため、生前に他人を蹴落としたり、醜い争いをした人がこの世界へと送られます。永遠に激しい戦いを繰り返し、苦しみや怒りから逃れられません。
畜生道
畜生とは動物や鳥、虫のことを指します。生前に生き物の命を粗末にした人が送られます。知性がなく、本能だけで生きているため救いが少ない世界となっています。弱肉強食の世界でもあるため、強いものから襲われるという恐怖に怯えることになります。
餓鬼道
欲深い者が送られる世界です。餓鬼が住む場所でもあるため、ガリガリにやせ細り、皮と骨だけの姿になってしまいます。飲み食いができずに、飢えに苦しむ日々を送ります。
地獄道
生前の行いが悪い者が送られる世界です。六道の中では最も苦しみが重く、その期間も長いと言われています。生前の罪を償うための場所なので、罪のレベルによっても行く地獄が変わってきます。
冥途へ向かう旅路
死後、どのような世界に行くか分かったところで、今度は冥途へ向かうための道のりを解説していきます。
まずは死出の山を登る
人は亡くなると、まず初めに「死出の山」に登ります。暗く、険しい道を一人で7日間歩かなければなりません。距離にすると約800里です。つまり、約3150キロの道のりをたった一人で越えるのです。
孤独感に苛まれることと思いますが、途中、星が見えたり家族の声(お経)が聞こえてきます。それらは長い旅路の励みになります。また、この時期は香の煙しか食べられない香食の時期です。遺族は葬式を終えても仏壇の線香を絶やしてはいけません。
賽の河原が見える
山を越えると、美しい花畑見えてきます。その先にあるのが、「賽(さい)の河原」です。賽の河原の奥には、あの有名な「三途の川」があるのですが、その直前の「賽の河原」に子供達がたくさんいます。その子供達は親より先に亡くなってしまったため、親不孝という罪で三途の川を渡れずに石を積み続けているのです。
しかし、石がある程度積み上がると、どこからか鬼がやってきて金棒でぶち壊してしまいます。罪の重さによって永遠に石を積み上げていくのが「賽の河原」です。
三途の川を渡る
死者が大人である場合は「三途の川」を渡らなければなりません。「三途の川」という名の由来は、川を渡るためには三通りの方法があるからです。その方法は、ここでも罪の重さによって変わってきます。
- 善人の場合:金銀七宝で作られた橋を渡る
- 軽い罪人の場合:山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡る
- 重い罪人の場合:強深瀬と呼ばれる深瀬を渡る
渡し船がいた場合は、渡し賃を六文払うと乗せてもらえることも。ただ六文はかなり珍しいことなので、渡し船を利用することは困難だと言われています。「三途の川」は徒歩で渡る覚悟をしておいた方が良さそうです。「三途の川」を渡り切ってしまうと、こちらの岸には戻ってこれません。
奪衣婆と懸衣翁に出会う
「三途の川」を渡ると、今度は奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という死者の衣服をはぎ取る老夫婦が現れます。脱衣婆が服を脱がすお婆さん、懸衣翁が脱がせた服を木に懸けるお爺さんです。脱がされた服は懸衣翁によって「衣領樹」という木の枝に懸けられます。
木の枝は生前の罪の重さに従ってしなりだしますが、あまりにも枝がしなってしまうと地獄行きは確定といっても過言ではないでしょう。
いよいよ十王審判
奪衣婆と懸衣翁によって、服を脱がされてしまったので、ここからは裸で閻魔大王の法廷まで進みます。法廷の前に辿り着くと、牛頭(ごず)や馬頭(めず)、赤鬼、青鬼などに引き立てられ、閻魔大王の前へと突き出されます。
いよいよここから十王の審判が始まります。この時、死後7日間が経過しています。閻魔大王の法廷には浄玻璃(じょうはり)の鏡があります。そのため、十王の審判では、一切のごまかしはできません。生前の行いが全部映し出され、嘘も見破られてしまいます。
十王の審判では、死後7日目、14日目、21日目、35日目に聴取があります。
盗みや殺生、不貞、嘘など正直に答えないと罪が重くなってしまいます。
そして、最終的な49日目に行き先が決定するのです。
法事ではなく法要が大切!
現世に残された遺族は、死者の冥福を祈るために行う儀式があります。それがお寺で行う葬式や法事、法要です。
厳密にいうと、法事は「法要とその後の会食を含む行事」、法要は「死者の冥福を祈るための供養行事」と区分されています。
特定の死者に対して、決められた忌日に冥福を祈る法要を「追善法要」と言いますが、この追善法要は冥途の旅の手助けや軽罪になる他、遺族自身の善行にもなると言われています。
具体的には忌日法要と年忌法要があります。忌日法要とは、死後7日ごとに行う供養のことです。十王による審判を受ける際に、軽罪の助けになります。49日の法要が終わると、今度は100日目になります。
これは、死後100日目に十王の一人、平等王によって、思いもよらない道に行ってしまった死者に対して救済措置が設けられます。その際にも遺族の法要は有効的です。極楽にいける機会をもらえるということです。
平等王の他にも日にちごとに審判する王が決まっています。以下のまとめておくので、気になる方はそれぞれ調べてみるのも面白いと思いますよ。
初七日:秦広王(しんこうおう)
二七日:初江王(しょこうおう)
三七日:宋帝王(そうたいおう)
四七日:伍官王(ごかんおう)
五七日:閻魔王(えんまおう)
六七日:変成王(へんじょうおう)
七七日(四十九日):太山王(たいざんおう)
百か日:平等王(びょうどうおう)
年忌法要は、年数に応じて法要を行います。一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌、百回忌、百五十回忌とたくさんあります。
年数によっても、それぞれ王が決まっています。知っておくと良いでしょう。
一周忌:都市王(としおう)
三回忌:輪転王(りんてんおう)
七回忌:蓮華王(れんげおう)
十三回忌:慈恩王(じおんおう)
三十三回忌:祇園王(ぎおんおう)
供養の時期や回数は人それぞれ
故人を弔うことは自身の行いを改めることにも繋がります。死後の世界や法要の意味をしっかりと理解することで仏教の奥深さやお寺の面白さも分かってくるかと思います。
今回ご紹介したことは、終活をする上でも役に立ちます。ぜひご家族やご親戚とこれからの人生を話し合う機会をつくってみてください。